古墳

Grabmal von Kaiser Nintoku

仁徳天皇陵
© National Land Image Information, Japan

 

1707年 日本地図

Jpan um 1707

1707年 日本地図 ウィリアム・アダムス、将軍謁見のイラストつき。

 

千利休

Oda Nobunaga

長谷川等伯画

 

 

堺の歴史

堺には世界最大の大仙陵古墳や、大小100数基の百舌鳥古墳群があります。 大仙陵古墳は一般的に仁徳天皇陵と呼ばれています。

古事記や日本書紀によると、仁徳天皇(313-399年)は日本の第16代天皇で、応神天皇の4人目の息子であり、反正天皇(はんぜいてんのう)、允恭天皇(いんぎょうてんのう)履中天皇(りちゅうてんのう)の父と考えられています。

室町時代、堺は南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展しました。また、大和川が堺と大和(現在の奈良県)を結び、堺は、国内と国外商業の接点となる町として、栄えました。その経済的繁栄は内外から注目を受けるようになり、堺は当時『東洋のベニス』として、ヨーロッパ世界に認識されるほどでした。

安土桃山時代には貿易港としての地位をかため、会合衆(えごしゅう)と呼ばれる商人たちによって、自治的な町運営が行われました。当時、»海の堺、陸の今井«といわれるほど、堺は自治都市として栄え、自由な風潮のもとで、文化も発展しました。茶の湯で有名な千利休もこの堺出身です。堺は当時、茶文化の中心だったともいえます。

後、堺は天下統一を目指す織田信長に屈服し、その支配下に置かれることになります。織田信長の死後、天下をとった豊臣秀吉が大阪城を築き、そこに城下町が開発されるに伴って、堺商人の多くが大阪へ強制移住させられました。このため、堺の都市機能は著しく低下することとなります。

江戸時代には徳川家康の鎖国(1641 -1853年)のによって、貿易港としての堺は、国内商業のみに頼ることになり、経済の中心はさらに大阪へと移っていきます。 しかし、江戸時代後期に入ると、醸造業などが栄えた影響で堺は再度活気を取り戻します。堺商人は次第に建物に贅を凝らすようになり、「京の着倒れ・大坂の杭(食い)倒れ」とともに「堺の建て倒れ」と呼ばれるほど、町には立派な屋敷が建ち並びました。

江戸時代にはタバコブームによって、タバコの葉を刻む包丁が堺で製造されるようになります。その切れ味の鋭さと品質は幕府にも認められ、「堺極」の極印のもと幕府専売となり、江戸幕府の懐を潤しました。これをきっかけに、堺は唯一の刃物の産地となり、堺包丁の名を全国に広めることとなります。

幕末には、鎖国が崩壊、欧米より大阪の開港を要求されましたが、堺周辺の古墳を守る目的もあり、神戸が開港地に選ばれました。その結果、堺は中世以来の国際貿易への復帰の道を閉ざされることとなります。 明治時代には堺県が置かれたものの、堺の繁栄を恐れる大阪府の要求により、強引に同府に合併されたと言われています。 堺はその後、紡績や煉瓦産業を中心に工業都市へと変貌を遂げていきます。現在、堺市に本社を置く大企業として、自転車部品のシマノなどがあげられます。 堺の伝統産業としては、堺刃物、堺識手織緞通、堺線香、堺五月鯉幟、和菓子、地酒などがありあます。